西オーストラリア州ブルーム、真珠を通して日豪が築き上げてきた親交の歴史
西オーストラリア州のブルームを知っていますか?ブルームにはオーストラリア屈指の真っ白な砂浜が続く美しいビーチがあります。ビーチを歩くラクダの隊列は人気アトラクションの一つ。そして潮の影響で水平線に映りこむ月の輝きがまるで階段のように見える幻想的な「月の階段」が見れることでも有名です。筆者はオーストラリアに行くまでブルームの名前すら聞いたことがありませんでした。でも、現地で何人もの片言の日本語を話すオーストラリア人に出会ったのです。今日は西オーストラリアと日本の歴史について紹介します。
西オーストラリア州では真珠が取れることでも有名です。日本人がオーストラリアに初めて真珠を取りに来たのは1881年のことでした。とりわけブルーム近海に多くの真珠が生息していることがわかってから、よく働き優れた技術を持った日本人の潜水夫は現地で重宝され、大変多くの潜水夫が日本からブルームへ移り住みました。でもその結果、長時間海底にいるとかかってしまう潜水病にかかった多くの日本人が現地で命を落としてしまいます。現在、ブルームには当時亡くなった人が主に眠っている日本人墓地があります。こんなにも日本から遠く離れた土地に、日本人ばかりが眠る墓地があるなんて驚きですよね。
八月にはブルームで真珠祭りが開かれます。この祭りは、現地でも日本語で「シンジュマツリ」と呼ばれています。40年以上も続くこのお祭りは10日間に渡って伝統的な文化や歴史が紹介され、真珠の収穫時期の終わりを祝います。日本のお盆をブルームでお祝いする代わりとなったとも言われています。
真珠を取るために日本人が多く渡ってきた時期に、オーストラリアでは日本ブームが巻き起こり、博覧会や演劇を通じて伝統的な日本のイメージが伝えられたと言います。筆者が出会った片言の日本語を話すオーストラリア人は、何も年老いた人ばかりではありませんでした。若い学生が日本語で挨拶してきた時には驚きましたが、さらに驚かされたのは日本語を第二言語として学校で学んでいるというのです。日本では第二言語として英語を学んでいますが、オーストラリアで日本語が第二言語として選べるというのは考えたこともありませんでした。
オーストラリアが「白豪主義」という白人しか移住できないという政策を取っていた間にも、有色人種では日本人のみが例外的に移住を認められています。1970年代より日本から積極的に色々なものを輸入しようとした国でもあります。それほど、歴史的にもオーストラリアは大の親日家であると言えるんですね。
地理的に見ても、比較的近い日本とオーストラリア。空の便が便利になって、日本には多くのオーストラリア人が旅行に来ています。私達も、日本人としてもっとオーストラリアのことを興味を持って知ってみたいですね。
大学時代、将来の夢がなくても、英語が出来れば将来役に立つ!と言われた1ヶ月後、人生初海外のオーストラリアへ短期留学。自分がいた世界の小ささに気付き、そこから旅を始める。バックパッカーで旅をした総期間は3年。旅を通じて習得した英語を磨き、英語教授法TESOL習得後、英会話教師となる。旅中で出会ったフランス人と結婚し、現在1児の母。